インタビュイー
菅沼 堅吾(すがぬま けんご)
肩書
震災当時: 中日新聞東京本社(東京新聞)編集局次長、6月に編集局長
(調査当時: 同東京本社編集局長)
経歴
早稲田大政治経済学部卒、1978年に中日新聞社入社。岡崎支局、静岡総局勤務の後、東京本社(東京新聞発行)へ。政治部長、社会部長、論説委員(一面コラム「筆洗」担当)、編集局次長などを経て2011年編集局長に。15年6月に取締役、17年6月より中日新聞社取締役北陸本社代表。編集局長時代の原発報道は「果敢なるジャーナリズム精神」と評され、第60回菊池寛賞を受賞した。石巻専修大学客員教授、専修大学評議員。
インタビュー実施日時
2014年7月17日(木曜日)午後6時〜8時半
東京都千代田区内幸町、中国新聞東京本社内、東京新聞 会議室にて
聞き手
奥村信幸、五十嵐浩司

インタビューの要点

  1. 誰のために書くのか、その答えの一つは、やはり一番弱い人のために記事を書くんだねと。そうするとそれは誰ですかと。それは赤ん坊だよねと。でも赤ん坊の話は聞けませんよね。じゃあお母さんの声を聞きましょうねと。お母さん、今なにを知りたいんですか。放射線のことがさっぱり分からなくて困っているんですか。確かに心配ですね。私たちも実はよく分かっていません。じゃあ、放射線のことを徹底して1週間詳しく、毎日でもいいから1ページ使って報道しましょうと」
  2. 「『客観報道』という名のもとに、お上の発表をそのまま記事にしているだけで、世間が納得してくれた時代が崩れたということを実感したわけですね。3・11前に戻るか戻らないかっていうことですよね。うちとしては二度と戻らない道、新しい新聞を作る気概でやらないと読者の信頼を維持できないと、心底思いました」
  3. 「反」原発でなく「『脱』原発」は自然に社論となった。特報部が小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)氏らのコメントを紹介し、原発の危険性や矛盾が明らかになるにつれて、社会部や政治部も「金より命」を意識するようになった。背景になるのは「原発は制御できないという恐怖ですよ」。

インタビュー後記

福島第一原発の事故に直面して、かなり早い段階から原発の存在そのものに疑義を表明し、原発を維持しようとする東京電力や政府の発表に批判的な論調を全社を挙げて展開していくことができた社内の「空気」が強く伝わってきた。東北地方に拠点を持たないブロック紙の取材リソースの限界はありながらも、関東地方の住民目線にこだわり、「それでも原発は心配」とこだわる強い意志が感じられた。

各社に「○周年」とか月命日に特集を組むなど、いわゆる「アニバーサリー報道」のことを聞くと、どちらかと言うと「そのようなタイミングでしかニュースを出せないことの反省」のようなネガティブなコメントが返ってくることが多い中で、「新聞社としての意思を示す重要な報道と位置づけている」という反応は新鮮でもあった。

東京新聞の読者である首都圏の、しかも脱原発を支持する人たちは比較的若く、デジタル・コンテンツを使ってのリーチも戦略として考えていかなければならない中で、スマホやタブレット対応やソーシャルメディア戦略に関しては、手が回らず、少し遅れをとっているという印象であった。

(奥村信幸)