インタビュイー
小林 毅(こばやし たけし)
肩書
震災当時: 産経新聞社東京本社編集長
(調査当時: 産経新聞社取締役編集・論説・正論担当)
経歴
福岡県出身。早稲田大学を卒業後、1983年産経新聞社に入社。横浜総局、東京本社経済部を経てベルリン支局長。論説委員などを経て、2010年東京本社編集長。13年東京本社編集局長、15年取締役。「東京以外に横浜とベルリンしか知らないのは......」と手を挙げて大阪勤務についたこともある。
インタビュー実施日時
2015年12月21日(月曜日) 午前10時〜11時5分
東京都千代田区大手町、産経新聞東京本社、編集担当役員室にて
聞き手
田中淳、五十嵐浩司

インタビューの要点

  1. 他の全国紙に比べ少ない地方要員。東京本社と大阪本社を合わせても発災直後に現地に送り込んだ人員は数十人規模にとどまった。当初は地元向けの情報発信も心掛けたが、1年ほどたって「地元に住む人たちに送るニュース」は担いきれないと、「ふるさとを離れた人々のための地域のニュース」に舵を切った。「全国紙」はだれのために情報発信をしているのか、その一つの考え方である。
  2. 「危機を煽らない報道、不安を煽らない報道」を一貫して意識して報道に当たる。原発事故後は「正しく怖がろう」。「原子力発電は必要だ」という社論を踏まえつつも、「原子力行政でおかしなところはあった、ダメなところはあった」ときちんと指摘はしてきたと自負する。
  3. 3月12日の一号炉水素爆発で放射線量が高くなっても、取材に当たる記者らにマニュアルに定められている「圏外への退避」の指示は「出していない」。「地元の人はそこで生活してるんだ」「基本的にそこで生活している人々がいるのに、メディアがそこを離れてはいけないだろう」という「報道する者の責務」を指摘する。

インタビュー後記

産経新聞を「サンケイらしく」している要因の一つは、その編集部門の要員の数だろう。東京本社に約300人、東京管内(静岡以東)の支局に約75人、大阪本社に約170人、大阪管内の支局に約100人という陣容は、欧米の新聞社に比べれば決して少なくない。しかし、他の一般全国3紙に比べれば、とりわけ地方要員が圧倒的に少ない。1面トップにしばしば「論」を掲げる他の3紙とは異なる「大新聞指向」的な紙面づくりも、社の「メディアのありよう」への考え方がまず第一なのであろうが、人数の問題に規定されてという面もあるのではないかと推測する。

こうした制約のなかで、どのように3・11を伝えたのか。このインタビューの興味の一つはそこにある。発災直後に現場へ向かわせた記者、カメラマンの数が他の3社やNHKとは1桁異なる。そこでどう取材し、誰に何を伝えようとするのか。その選択や集中の発想は「すべての人々にすべての情報を」となりがちな大発行部数紙も学ぶべき点があるだろう。そもそも、取材陣のトップで指揮する担当編集長(他社では編集局次長)が、国立天文台がつくる『理科年表』をくりながら3・11特集面のデータを探した。そんな光景はなかなかお目にかかれるものではない。「ジャーナリスト」ではなく「ブンヤ」と呼ばれるタイプの新聞記者の匂いがする。

インタビューにあるとおり、産経新聞は3月12日の一号炉水素爆発の後も記者たちに20キロ圏内や30キロ圏内への立ち入り禁止を命じていない。これにもこうした「ブンヤ」的反逆心を感じる。そもそも400人前後という少ない記者数だからこそ、一人一人の顔を思い浮かべつつこうした判断が下せ、記者たちも納得するのではないか。

もう一つ。インタビューは午前10時から行われた。産経新聞は大阪市内を除き夕刊を出していない。だから、東京本社の編集局はあまり人の気配がない。素晴らしいことじゃないか。朝刊づくりで夜遅くまで働く仕事だ。午前中も現場では取材を進めているのだろうが、夕刊の締め切り間に合わせるため出稿を慌てる必要がない。ジャーナリズムの質、ジャーナリストの生活を考えれば、この「閑散とした午前10時」こそ、あるべき姿なのだろう。

(五十嵐浩司)